
おかげ様で
かさかさから回復、
自分らしくモノを見たり感じたりできるようになりました。
ただ、いつものニュートラルな位置を跳び越して、
少々感度がよくなりすぎてるかも。(すぐ泣くんだよね。)
…春だからかな。
春だからか、いろいろな人と集まりましょうとかってなったり、
年度の終わりだし打上げましょうってなったりして、
たくさんおしゃべりする機会があります。
…本当に人っていろいろ。いろいろな考えの人がいますね。実感。
勿論、私も、他の皆さんから見たら
「人っていろいろね」な感じなのでしょう。
少し前の
ほぼ日、「今日のダーリン」にこんな文章がありました。
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他人と自分がちがっているようだと気付いたとき、
ことさらに「自分のほうこそ正しい」と
主張する人もいますが、
どうも、ぼくはそういうタイプではありません。
また、「ああ自分はまちがっている!」と、
自分を否定してしまう人もいますが、
ぼくは、そういう人でもありません。
「他人たち諸君」と「自分」は、共存できる。
そう考えておるのであります。
例えば、です。
一般的に「他人たち皆さん」は、
「朝食はさっぱりしたもの、軽いものを食べる」
と思っておられるようです。
しかし、実はオレは、朝食がすき焼きだろうが、
焼き肉だろうが、チャンコ鍋だろうが、とんかつだろうが、
まったくかまわないのです。
みんなが、あまりにも「朝食は軽く」ということを、
疑いの余地ない常識として語ることが多いので、
このことを、オレは何十年も黙っていました。
「ええっ?!信じられなーい」なんて、
うるさく言われたくもないし、
「信じられなーい」と言いたがる人たちと、
言いあいをするつもりもなかったからです。
ぼくも、軽い朝食につきあっていれば、問題はないのです。
で、ひとりでいる朝に、重いものが食べたかったら、
静かにそれを食べればいいというだけのことです。
どっちだって、いいのです。
どっちが正しいかまちがっているか、
決める必要もないのです。
たがいに「へーえ」と言って、おもしろがればいいのです。
だいたい、こんなことを言っているぼくは、
朝食に重いものを食べた経験など、ほとんどありません。
他人たちの「常識」に合わせていて、問題ないからです。
そんなことばっかりだという気がします。
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…私も周りの人とのスタンスは、
基本的にはこんなカンジのような気がします。
私は私で、自分の考えはなくもないけれど、
人に合わせて何の問題ないので、合わせることが多い人間です。
が、その場で合わせたけれど、やっぱり違和感が残る場合や、
どうしても合わせられなくて、自分の我を通してしまった場合や、
合わせてばかりいる、八方ビジンな自分を
情けなく感じる場合もあります。
そんな時が、そんな時こそが、
家族も含めて自分以外の誰かとの関わりの中での「学び時」と思います。
学ぶというよりは、訓練といった方がいいかもしれません…。
糸井さんの言うように、
「どっちが正しいかまちがっているか、決める必要もない」という
基本に立ち返る訓練。
違和感も、我を通して迷う気持ちも、情けなく思う気持ちも、
最後にこの「真理」に行き着けば、
きれいに解消されるような気がします。
他の人も合わせる私も、お互い我を通すことも、
どちらも、どれも、正しいとか間違っているとかではない、と、
誰も裁かず、互いに気持ちよく繋がっていられる方法を見っけて
共存していけばいいんだろう、と。
いろんな感情体験を通して、いつでもいち早くここに立ち返る訓練を
積んでいる最中なのかもしれません、私の場合。
*画像*
いただいたイタリアの旅のお土産。ハンドクリーム。
舶来品のかほり。