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きょうもありがとう
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![]() ひとつ前の記事で、 「誰かの評価を気にするのじゃなく、先ずは、自分が自分を認める方向に向かおう」 って、決意にも似た、誓いにも似た思いを、文章にしました。 それを書きあげてから、ちょっと考えたのだけど、 大変勝手ながら、blogのコメント欄、クローズにさせて頂こうかと…、 そんなふうに思い至りました。 耳をふさぐ、とか、お声を拒む、とか、そういうことでは決してなく、 あくまでも自分の内側の熟成、というのか、ただただ、そこを目指して、のことです。 今までがどうで、よくなかった、とか、そういうのでは全くなく、 今までもよかったし、有り難かった、さて、これからはこうしてみよう、というような、 進化、のようなもの、というのか。 ふっと湧いてくる思いを書き表すことで、救われてきたこのblogのバショ。 勿論、これまでも十分に素の自分をさらけ出してきたつもりではあったけれど、 これからは、今までより更に“自分よがりメーター”のレベルを上げて、 もう少し気ままに、もっともっと自分を解き放って、 「好きなものは好きなんだぁーっ!」とか、 「今、凹んでますねん…」とか、 「これ、どうよ?」とか、 更にとりとめない徒然を、更に自由に、書いていこうと思います。 でもって、そんなありのままの自分を、先ず自身が認めていこうと思います。 反省はしても自分を卑下せずに、自分で自分を認めていく、そのレッスンとして、 闇雲に“ジコマン街道”まっしぐら!してみようかと、そんなふうに。 これまで頂いたコメントは、 本当に、私ひとりでかみしめるには勿体ないほどに温かく、優しく、深く、 目からウロコで、気づき満載で、包容力あふれる…そんなおことばばかりでした。 ココのblog本文は、へっぽこで、とぼけているのに、 ココのコメント欄は、自慢したくなるほどの素直な愛に満ちていました。 とても意味深いやりとり、そして、楽しい往復書簡でした。 本当にありがとうです。 コメント欄こそクローズにさせて頂きますが、 これまでのように、メールやおしゃべりなどで、 思いを共有してくださったことをお伝えくださったり、 「それについては、私はこういう見方してるよ」と教えてくださったり、 私の、ドンくさっ!なミスを笑ってくださったり、と、 ライトに、ディープに、ゆるく、鋭く、 おひとりおひとりとダイレクトにお話できれば、本当に幸いです。 ココのコメント欄で、やさしい風を吹かせてくださった皆様に、 ひと区切りの私から、心をこめて深い感謝を。 ありがとうございました。 皆様のまわりにも、いつもやさしい風が吹き続けますように。 本当にありがとうでした。 ありがとう。
10/22 00:44 | 「住」 ![]() ごはんをつくる。 ひと手間かけるとやっぱり美味しい。 野菜の面取り、切り方、素揚げ、塩、とか、そんなこと。 でも手抜きもいっぱいする。 こっそりの手抜きもあるし、あからさまな手抜きも、言い訳と一緒にする。 「美味しい」と言われれば素直に嬉しい。 でも、美味しかったら自分で先ず「うまっ」とか、先に言う。 洗濯や掃除をして、気持ちいい。 ちょっと、ラクチンに、少し、楽しみながらできるよう、アタマも使う。 ホコリが目についたら、さっと掃除できるよう、ペーパーモップの定位置を変えてみる。 ほうきのかけひもは革ひもで、釘も、アイアンのぶっといの、とかね。 はき終わってほうきをかける時、ちょっと嬉しかったり。 着るもの。 毎朝、何を着ようか考える。今日はどんな気分かな。 この初夏からは白シャツばかり着ている。 ガーゼ、ブロード、麻、オックスフォード。 襟はあってもなくても、ボタンを1こか2こあけて。 買い物に出る。 たまに、好きな花屋さんで花を少し買う。 コーヒーはぜいたくすることもあるけど、見切り品もかごにたくさん入れる。 子どもと。 いってらっしゃいとおかえりを言って、 送り迎えも時々して、保護者としてのもろもろもする。 週末に試合があれば、体育会系の血が騒ぎ、熱く応援もする。 夫と。 時間と睡魔の許す限り話す。触れ合う。議論もする。 この時間が、それぞれのリセットになることを、 互いのエネルギーの交換のし合いになることを、 ココロ、カラダ、タマシイは知っている気がする。 深い、浅い、近い、遠い、いろんな距離の人と、友と、 いろんなご縁の人と交わる、つながる、考える、楽しむ。 ソファーで、ベッドで、昼寝も時々。 ひとりの昼ごはんは、買い物に行ったついでに調達したりも。 かんぴょう巻きと鉄火巻きとこしあんぱんとか、そんなの。 炭水化物ばかりだなぁ。 …これが私の毎日です。 誰かが喜んでくれたら、嬉しいし、 誰かにほめてもらえたら、そりゃあ嬉しいし。 確かに、誰かに認められたら嬉しいんだけども、 「それならおまえさん、 誰かに認めてもらえなかったら、自分を認めてあげらんないのかい」 ってこと。 ここ。ここに、私の意識がフォーカスしている、最近。 誰かの評価が大事なんじゃなくって、先ずは自分で自分を認めよう、って。 ただね、 自分が自分を認めていれば、それでもうよいの、という、 自分勝手なような、閉鎖的なような匂いを漂わせたいのじゃあなく、 何より自分が自分を認めて、そこから広がろう、はじめよう、という、 ゼロ地点の土台固め、みたいな… 意識したいのはそんなこと。 先ず、自分が選択したことを楽しんでいるかどうか。 先ず、自分の気持ちはどうか。欲しているか、いないか。 先ず、自分が自分を認めているかどうか。 「自己満足」しているかどうか。 …そこを先ず自分に問おう。 楽しんでいなかったり、 欲していなかったり、 認めていなかったり、 「自己満足」していなかったりしたら、、 楽しむように、欲するように、認めるように、満足するように、 自分をコントロールしたり、軌道修正したりしよう。 そうやって先ずは、 自分で、その時その時の自分に誇りを持つこと、ありき。 そこから、発する。広げる。進んでいく。 ジコマン、自己満足、って、 内輪的な、 謙遜する時に使うような、 開いているか閉じているかといえば、閉じているような、 そんなイメージだったけど、 自分に満足するって、とっても大事なことだよねぇ。 同じ角度から照らすと、 ジコチュー、自己中心、ってのも、ある意味悪くないとことばだと思えてくる。 確かに「あのヒト、ジコチューよねぇ」と言われるようなヒトを、 私は、まぁ、そういうヒトもアリかもなと思ったり、 逆にちょっと羨ましいと思ったりしてきた理由が、少しわかった気がシマス。 *photo* 赤いチリトリ、高光俊信さんの。 昨冬、ecokaから我が家に。 古めかしいものの赤い色って、魅力的。 といっても、これは古いものではないけれど。
10/16 00:32 | 「住」 ![]() いいタイミングで、誰かと交わしたことば。 いいタイミングで、本やネットで出会えた文章。 探していたパズルのピースみたいに、 きれいにはまることってあります、すっとん、って。 最近のすっとん、はね。 山田ズーニーさんの持ち出す感覚という文章でした。 「持ち出して」ナンボ。 伝えてナンボ。 持ち出されたお相手も、 ズーニーさんの講義アシスタントさんみたいに 「持ち出してくれてありがとう」って言える関係、集団っていいなぁ。 ズーニーさんの学生時代の仲間みたいに 「『いまの自分のまんまでいい、 許されて、ここにいいていい』と力がわいてくる」 って思えるつながりっていいなぁ。 正直に、素直に、飾らずに伝えてくれる人と過ごす、独特の心地好さ、とか。 私の弱い部分、毒の部分、恥の部分を伝えてしまって大丈夫と思える、 やさしく深い安心感、とか。 「持ち出し、持ち出され合って、ありがとう」な関係。 夫が私とそんな関係を結んでいてくれるのは本当にありがたく、 でも、引っ越しにより、 「友だちとの持ち出し、持ち出され合って、ありがとうな時間」ってのは 減ってしまっているもんなぁ。 自分が自分じゃないような、居心地のよくないような、 そんな感じは、なるほど、そこの「渇き」からくるのかもなぁ。 「あぁ、私も友に持ち出し、持ち出されてぇーっ。」 と湧いてくる気持ち。 それを、オトナな範囲で抑えながらも、 でも、オトナな範囲でラブコールしてみる、コチラの友に。 「持ち出しにつきあって」とはさすがに言わないけど(笑)、 「会おうよ」「ごはん食べよーよ」って。 そんなこんなで。 ココがあってくれることもありがたいのです。 「持ち出せる」ココが。 リアルでは言わない、言えないようなことば、 「あぁ、私も持ち出し、持ち出されてぇーっ。」 とかね、叫べるし(笑) ありがたいです。 *photo* この春から住み始めた、中古のおうち。 ちょっとだけ庭。 ![]() 年が明けてから続く「イエ・イベント」。 ちっさいものもあれば、おっきいものもありまして、 夫誕生日、七草粥、鏡開き、天神講、長女誕生日、 節分、兄のお嫁ちゃん誕生日、バレンタイン、 夫方父誕生日、私方母誕生日、とか。 うつろう日々の中で、 大事にしたいもの、大事にしたいことがある時って、 自分を見つめる、もうひとりの自分が問いかけてくれる感じがします。 「それぞれの日の。ほんとの意味を大事にしてる?」って。 「ココロを大事にしてる?」って。 「もう、ばっちりっすよ。」 とは、答えられないこと、よくあります(汗)。 でも、ワサワサ、バタバタな中で精一杯がんばったのだ、 と、思うことにしている、都合のよいワタシ。ワハハ。 おまけに、「問いかけてくれてありがとう、もうひとりのワタシ」と、 自分に感謝までしちゃって。 どこまで、自己肯定かって、ね(笑) ![]() 今日、洗面所で、 顔の産毛を剃りながら思ったのは、こんなこと。 お手入れをさぼっていた私の、顔の産毛がふさふさしていても、 危うく眉毛がつながりそうになっていても、 鈍感でいてくれた夫に、ありがとう、って。 故意に気づかぬふりをしてくれていたわけではないと、 それは、長年のつきあいでわかるのだけど。 故意だろうが、生まれもってのものであろうが、 私には、この夫の鈍感さがとてもありがたくて、ちょうどよくて。 そう思ったのって、よそ様のだんなさんと比べて、とか、 具体的に、他のご夫婦、カップルのエピソードがあって、とか、 相対的な何かで思い及んだことでは決してなく、 シェーバーを動かしながら、 ただただ、うちのひとのことをぼんやり考え、 ただただ、うちのひとの鈍感具合が、 私の「抜け」とか「スキ」に、ぴったりでありがたい、と、 そんなふうに素朴に思った昼下がりなのでした。 「自分にぴったり」とかって言っちゃって、 自分中心な匂いがプンプンで、口幅ったく思うけど、 でも、ある日の洗面所での、あの一瞬、 誰とも比べずに「自分が足りていてありがたい」と思えたあの一瞬。 こそばゆいうれしさがこみあげました。 *photo* うちの洗面所の床の、クッションフロア。 (業界用語?では『CF』というらしいです。) 昭和40年代の中古の家ならではの宝物。 好きなんだよなぁ、こういうの。 |
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